引き続き作品紹介
今日は
「ONCE IN A LIFE TIME」
この曲は本当に思い入れがあって
忘れもしない
日本を代表するプロデューサー
DJMUNARIさんと
アメリカで50CENTなどを手掛ける
ARRABMUZIKが
組んでタッグアルバムを出す為に
日本人ラッパーを
プロデュースするという企画があり
その中でも有名無名に関わらず
アルバムに参加できる権利を得られる
音源でのトーナメントが
AMEBREAKさんで開催された
その当時、この企画を知ったのは
締め切りが近くなってた
時期だったのを覚えてる
この時オレは
まだ地元ストリートでCD-Rを
仲間と組んで出したり
地元のコンピに参加したり
様々なイベントを企画したりという
活動をしていた
それはそれで
本当に小さな成功はしてたんだと思う
でもずっとこのままでいいのかな?って
心にずっと疑問はあったんだ
「もっと大きなステージで勝負してみたい
って純粋なプレイヤーとしての気持ち」
どこまで自分が通用すのだろうか?ってこと
時間も無いってのはわかってた
「でも今のままでは何も変わらない」
ってずっとくすぶってた
でも当時の仲間達の後押しもあり
挑戦することに決めた
そうと決まったら
音源トーナメントで出す
デモ作りをしないといけない
当時の後輩で
少しレコーディング編集が
できるヤツにも協力を得て
取り掛かった
時間も無い状況でいきなりは
有名レコーディングスタジオも
スケジュールの空きがなく
しかたなく地元の街の開放されてる施設の
簡易レコーディングスタジオで
録ることにしたんだ
トラックも2曲ほど
外国のフリー音源を決めて
リリックの制作をした
今と違い
当時は紙に書き出しまくるスタイルで
面白いようにペンが止まらなかった
何せ今の状況をテーマにしたから
言いたいことだらけだった
そこから
レコーディングもスムーズに進み
わずかな時間で2曲を完成させた
そこから事務局に曲データを送ったんだ
結果は本当に信じられない状況だった
憧れてたプロデューサーと作品が作れて
自分が雑誌で見てたアーティスト達と
アルバムの中に
一緒に入ることになるってのは
夢だったから
そこからDJMUNARIさん達から連絡が来て
すぐニューヨーク行きの準備が始まったんだ
何せニューヨークなんて
当時は行ったことなかったし
テレビや映画でしかわからない
世界だったから
何もかもがワクワクな状態だった
ニューヨーク行きの当日も
沖縄からだから国内で乗り換えもあったし
時間もあったから当時は持っていたipodに
入れられるだけ様々な曲を入れて
向こうでの制作のヒントに活かそうと
浮かれた気分はもう無しの状態で
マンハッタンに到着するまで
ずっと曲を聞いては
作品に活かそうとアイデアを練ってた
向こうについてからも
DJMUNARIさんから
様々な年代のHIPHOPの曲や
文化を教えてもらい曲の作り方
映像の進め方、いろんなものを
間近で学ばさせてもらった
本当に感謝してます
何を伝えるべきなのか
そしてアルバムの曲作りでも
様々な曲をスタジオで
缶詰になりながら
本当にノート数冊分のリリックや
曲もたくさん出来上がってた
でもどれを出そうか迷ってたんだ
もちろん自分を
全国的に無名から売る為に
ハードな曲を出そうと最後まで
考えたのを覚えてる
でもしっくりこなくて
ある時にDJMUNARIさんが
「数日気晴らしに
散歩したりいろんな街並みを
見ながら考えてみるといい」
と言われて缶詰だったスタジオから出て
外の雰囲気を感じながら
今までを振り返ったのを覚えている
「自分が何の為にラップを人生で選んで
どうなりたかったのか?」
やり始めた頃、仲間達とのこと
家族のこと、良いも悪いも全部
たくさんの想いがバーっと溢れてきて
そして一つのテーマにたどり着いた
「もしオレがこの曲で最後なら何を伝えるか?」
それが出てきたんだ
当時まだ23歳だったけど
でもかっこつけるのではなく
本質的にラップでメッセージを
伝えたかったから
それでできたのが
「ONCE IN A LIFE TIME」
「人生一度切きり」
1stミニアルバムにも
ボーナストラックで入ってる
是非聞いてくれたら嬉しい